JJ5D:申し込みに関するお知らせ

JJ5Dの申し込み受付は終了しました。

JJ5D:申込状況

6月3日(木)にJJ5Dの受付が始まり、1期(7月27日~31日):92名、2期(8月3日~7日):108名のお申し込みをいただきました。ありがとうございます。

現在小学生の申し込み枠に多少空きがあり、引き続き募集しております。
JJ5Dに関するご質問等ございましたら、浜寺聖書教会までお問い合わせくださいませ。

受付について

6/3(木)10時から受付を開始します。
参加ご希望の方は、申し込み書に必要事項を記入の上直接教会にお越し下さい。
電話の申し込みは行っておりませんので、ご協力よろしくお願いします。

【証】2010年夏STMチーム2:シャノン・アームストロング

シャノン

私はグレイス・コミュニティー教会でずっと育ってきたこと、とても信仰深い両親であったことを祝福であったと思っています。私は若いときに父と一緒にひざまずいてイエス様を私の救い主として受け入れ、心にきてくださるように祈ったことを覚えています。私の両親はキリストにある基本的な信仰において自分たちの生活にどのように適用させていくのかを教えてくれて、とても役に立ちました。両親はさまざまな教会の活動グループに参加できるためにクリスチャンスクールに私を入学させました。そしてうちでワークブックや一緒にデボーションを持つことをとおして私に教えました。クリスチャンとしての生活がどんなものであるのかわかっていました。けれども神様は誠実なお方で私が成長していくにつれ、私が生活で犯す罪の部分と完全に主にゆだねていない部分を示してくださいました。

中学生の時 クリスチャンであると主張していた仲のいい友達たちが、主が喜ばないような行動を取り始めました。けれでも私は多くのクラスメイトに「格好悪い」と思われたくなかったので、彼らとの友情にしがみついていました。私の好きな聖書箇所の1つは、このことを強く勧めているローマ12章2節です。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一身によって自分を変えなさい。」主の憐れみにより神は、私にこの友達関係を主に明け渡していなかったこと教えてくださり、主がどのように思われるかよりも、私の友達がどのように思うかに関心があったことについて示してくださいました。

私が主にこの罪を告白すれば第1ヨハネ1章9節で言われているように神は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。感謝なことに私には他に神様の基準に従うことを選んだ友達がいました。それで神様はこの時を用いて私の信仰を強めてくださり、私が主に従順であるということは私の周りに居る人々に依存することではないことを気付かせてくださいました。

神は高校生の最後の年に神様との交わりにおいて重要な部分を無視していたことについて示してくださいました。私は表面上は特に間違いを犯すことがないような生活を送っていました。内面ではキリストの子供が創造主と持つべき深い交わりがありませんでした。

私はヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をおあたえになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」を信じています。これは私が小さいときから知っている箇所です。キリストは私を罪から救い出すために十字架にかかって死んでくださり、地獄で永遠の痛みや苦しみを受けるに値する者であるにもかかわらず、御国で永遠にキリストと共に交わりができるように犠牲になってくださいました。自分の働きによってでは天国に行くことができず、神の恵みの賜物であることを私はわかっていました。しかし私は日々の生活を満たすためのこの真理を受け入れていませんでした。みことばを読み、祈ることを通して、より神に近づき成長するための機会として日々のその時々を考えていくべきでした。

けれども、自分は勉強や、スポーツをすること、友達と過ごすことを最優先としてきました。私は、神様と共に自分の生活を作り上げるのではなく、絶えず自分の生活にイエス様を合わせるようにしました。ピリピ3章8節では「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、・・・」とパウロは述べています。主に仕えることや主を知ることに比べると、今まで私が費やした時間は損やちりあくたでした。自分の人生を主に捧げることは、今まで決めたことではすばらしい選択です。神様は詩篇37篇4節に書かれている「主をおのれの喜びとせよ」とは喜びを持って生きる-つまり自分自身の代わりに主を生活の中心に置くということを悟らせてくださいました。

若いときに、主に導かれるために両親を用いてくださったことを感謝しています。それに加え、私の主として救い主として神との交わりの中で、神様の誠実さを確信できることにも感謝しています。私は主が計り知れない愛を私に注いでくださることにいまだに驚いています。また主は私の罪から私を救い出すために十字架上で死ぬこともいとわないと思ってくださったことにもです。それだけではなく、個人的な関係を私と持ちたいと思ってくださっていることもです。主は救い主であり、創造主であるというだけでなく、慰め主であり、友達でもあるのです。主は、詩篇139篇で「私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」主は自分が自分自身を知るよりもよく知ってくださいます。そして主の栄光をたたえるという最も価値のある満ち足りた人生を過ごすことを望んでおられます。主と共に人生を築き、他のことを優先してしまう誘惑といつも戦うことについて日々奮闘します。けれども私は罪の奴隷ではもはやないことを知っています。主の恵みの御許にあって私たちの歩む道、一歩一歩を助けてくださいます。

私は主のために生きるために努力します。将来の希望は天国でずっと一緒に主と共にいることです。そして私は多くの人にすばらしい特権と主との交わりによる満足を得られること、主と共に生きる生活があるということ伝えながら、これからも生きていきたいと思います。

【証】2010年夏STMチーム2:キミー・ウォング

キミー

私の人生を振り返ってみると私の人生に救いの完全な計画をもって働いてくださった神様の御手のわざがはっきりと分かり、驚嘆します。教会へは通っていませんでしたが、神様は私の幼い頃に御自身を明らかにしてくださいました。私はキリスト教主義の小学校に入学し、神様と聖書について学びました。しかしテストに合格するための知識を詰め込んだ勉強でした。 2年生のとき、友だちが誘ってくれた教会の夏のキャンプが楽しくて、毎年続けて参加しました。そこではキリストが私の救い主であるという真の意味を理解することなく、ただ祈っていました。成長して中学生になってから、日曜日に教会へ行き、中学生の交わり会に参加するようになりましたが、自分の心を満足させることや友だちと付き合うことが動機となっていました。今、私は私が学んだこれらのことを神様が用いられ、私が神様に近づくために教会で過ごさせて下さったときであったと確信しています。

私はクリスチャンであると言いながら聖書の中の神様が言われるクリスチャンのあるべき姿とはかけ離れていました。自己中心で自分の栄光のために勉強やバスケットボールをがんばっていました。また自分は善い人であり必要なものはすべて持っていました。聖い神様の方を向いていない私の罪から救ってくださる神様の方を見向きもせず、絶望の中に身を置いていました。私は神が恵みの内に私を救うように選ばれ、神のひとり子が死んでくださり、それで私が神と正しい関係を持つことができるようにという確信を持てるようにしてくださった確実な時を正確に指摘できません。しかし少しずつ私の心がよい方向に変化していくのを気付きました。神様のことをもっと知りたい、神様の栄光を表した生き方をしたいと願うようになっていったのです。

神様は今も私との関係をより親密に、成長させてくださっています。クリスチャンとして正しく生きようとしている私を忍耐をもって見守り、導いてくださる神様に心より感謝しています。UCLAのグレイス・オン・キャンパスに導いてくださり、そこでますます神様のことを学べていることに何より感謝しています。今年に入り、見通しのたたない不安、試練を通して神様に信頼して歩むことを学んでいます。これらの経験は神様が私に与えてくださる最善であり、またそれは神様の栄光を表すためのものであることを心から信じています。将来のことは分かりませんが、神様のご計画は人知を超えた素晴らしいものであることを私は知っているので、心に平安を保っています。

またこの夏、日本に再び行き、神様がなされる大いなるみわざを見たいと願っています。

【証】2010年夏STMチーム2:ジミー・ロー

ジミー

私はクリスチャンの家庭で育ったわけではありませんが(一家は仏教徒です)、いつもキリスト教の周辺にいました。キリスト教との馴れ初めは6年生の時から高校を卒業するまで、クリスチャンの学校に通っていたことです。そういうわけで私は天国と地獄といった概念に馴染んでいました。当然のことながら、私は自分の魂はどうなっていくのだろうかという絶え間のない悩みを抱えていました。もし聖書が真実で、私は自分の罪深さが理由で救われなかったなら、地獄に落ちるであろうという厳しい現実に直面しなければなりません。

しかし私には希望がなかったわけではありませんでした。私はまた慈悲深き神が御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、救いを備えてくださったことも教えられました。もし私がキリストにある信仰を持ち、主が成し遂げてくださったことをすべて信じるならば、私の罪は赦され、私の魂はもう滅びることはありません。私は救いに値するような人間ではありませんが、主によって一方的な救いの恵みを与えていただいたのです。私はただ祈りと神の御心に対する服従によって、救いをいただいたのです。

しかしながらこの真実を受け入れることは私にとってたやすいことではありませんでした。自分の生き方が嫌いで、傲慢にも主に逆らってきました。母は 6年生の時に亡くなりました。母の死によって一家は多くの経済的な不安に直面しました。私の目には、神様が生活を保障してくださるようには見えませんでした。そして母の死によって、私はお金だけが安心の源に思えてきたのです。私にお金があれば授業料をはじめ家族の支払いをすべてまかなうことができるし、将来の不測の事態に対する備えもできると思っていました。そしてお金があれば何でも買えて私の欲望を満たすことができるし、お金こそ幸せの源泉でした。

しかし神様は辛抱強く私を見守ってくださいました。高校生の時、神様はある一人の先生と出会わせてくださいました。その女の先生は時間をかけて私と一緒に福音書を読んでくれました。けれども私はその先生とともに福音書を学ぶことを嫌がっていました。なぜかというと私は自分を変えようとは思わなかったし、それに家族にからかわれたくなかったからです。私はわざと先生の信仰を試すような質問をしました。「もし神様が私たちを愛してくださっているのなら、なぜ世界中に罪が満ち溢れていることをお許しになったのか?」とか「もし神様が私たちを愛してくださっているのなら、なぜすべての人々をお救いにならないのか?」と。
先生はいつも辛抱強く慈愛に満ちたまなざしを私に向けてくれました。それで私がどのような無理難題を投げかけても、先生の信仰は揺るぎのないものでした。先生の生き方を見ていると、私は知らないうちに先生が好きになっていました。思うに、この時からじわじわと私の心は神様に対して開かれていきました。

大学に入学すると、私はこの高校の先生からキリスト教の団体を探し出すようにと激励されました。私は先生のアドバイスを聞き入れ、それに従いました。私はすぐにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)のグレイス・オン・キャンパスに入りました。この団体はグレイス・コミュニティー教会と提携していました。私がこの団体に参加することができるように、本当に主の恵みがもたらされたのだと思います。神様は私の考えを変えるために多くの人々をお遣わしになりました。思い起こせば、お金も功績も私の魂を救うことはできなかったのです。私は天国への道を買うことも得ることもできません。そして神様の主権を否定することもできません。私は神様が私に最善を望んでおられるとは考えていなかったので、神様に逆らい続けてきました。しかしこのような考え方は御言葉に反しています。御言葉によれば、主は主を愛しする人々のために最善をなすべく働いておられます。私は主がほんとうに私を愛してくださり、善いことも悪いこともすべて私の人生の最善のために用いてくださるということを受け入れなければなりません。

そして何よりも重要なこととしてキリストが私のために死んでくださるべきであった、しかしキリストは私を愛するがゆえにそうなさったのだということをついに理解したとき、私はへりくだることが出来ました。キリストの(十字架の)死は愛と贖いを究極的にあらわしたものです。私はキリストほどに私を満たしてくれるものはこの世には何もないのだということを理解しました。このことの理解に達したとき、私はひざまずいて神が私を救ってくださるようにと主に祈ったのです。

このことは何を意味するのでしょうか。私は何も恐れる必要がありません。私の人生における多くのことはわびしく希望のないものに感じられるかも知れません。今この時も私は過去に恐れていた多くのことがらに打ち勝ってきたとは言えません。しかし私の人生において何が起ころうと、永遠のことに比べれば何事も大した問題ではありません。すなわち神様と共に永遠の時を過ごすことができるということ、このことが量り知れない希望と喜びを私に与えてくれるのです。

【証】2010年夏STMチーム2:スティーブン・チャン

スティーブン

私が覚えている限り、両親はいつも私を教会に連れて行ってくれました。幼いころ、日曜学校やアワナ(クリスチャンのボーイスカウト)などたくさんの教会の行事に出席しました。私は教会で学んだ全てのことは真実ではないと思ったことはありませんでした。私はそれを決して疑問に思いませんでした。私ははじめからイエスが地上を歩かれたこと、そして十字架の上で死なれたことを事実として信じていました。しかし、これは知的な同意で、救いに至る信仰ではありませんでした。それは私にとって歴史物語以上のものではなかったのです。

私は教会に出席していたにもかかわらず、私の心は正しいところにありませんでした。私は全ての物事を自身の利益のために行っていました。私はアワナにゲームのために行っていました。そこで聖句を暗記するのが大好きでした。動機は神をことばを覚えるのでなく、暗記すると新しいバッジや賞がもらえ、みんなから褒められるからでした。私の心はプライドで満たされていました。私の行いは思慮深い悔い改めの心から出たものではありませんでした。私は単純にイエスという人が2000年前に私のために死んだことを理解しさえすれば、全てがうまくいくと思っていました。

高校時代、私は学校でよいことをしたりフットボールチームでプレイしていることで自分自身を誇っていました。私は真剣に学校では超イケてると思っていました。しかし、神は恵みによって私に罪を示され始めました。教会の若い人たちの学びに出席し始め、毎週みことのばのメッセージを聞いていました。神は私の心を柔らかくし始めました。神は私に全ての人が罪人であり、永遠の罰と死に定められていることを示されました。私は神が聖く公正で、すべての人々に完璧であることを求められていることを知りました。神の私たちに対する大きな愛のゆえに、御子であるイエス・キ リストを送って私たちの罪の罰を支払って死なせ、私たちが永遠の命を得るようにしてくださったことを分かり始めました。高校 2年のある段階で神はこの理解に私の目を開かせてくださいました。そしてそれは私の人生にとって最もすばらしい理解でした。

私は救われたにも関わらず、未熟な信者でした。高校の残りの期間は私の人生の中で最も霊的に弱った時期でした。私は高校の友人の罪の影響を喜んで受けていました。信仰者生活の日々の鍛錬からは大きく外れ、サタンのえじきとなり、この世の約束を追い求めていました。しかし、そんな私を神はほっておかれませんでした。大学進学前の夏の 1か月間、私は中国で過ごしました。そこで私は退屈でした。ある日、私はテーブルの端に聖書があるのに目をとめました。そして突然、それを読みたい衝動にかられました。私は聖書を読み、そしてそれを毎日続けました。読んで読んで読みまくりました。アメリカに帰るときまでには聖書の大部分を読み終わり、たくさんの疑問を持っていました。

UCLAに入学して、慈愛に満ちた神は私にグレース・オン・キャンパス (聖書の学び)に足を運ばせてくださり、グレースコミュニュティー教会に行かせてくださいました。ここに神が私をキリストに似た者へと、また成長した者へと変えて下さったことが分かります。そこでの人々のもっと神のことを知りたい、成長したいという願いは私の心に火をつけました。私は、みことばを読むことに時間を使い、祈り、クリスチャンの友人と交わることを始めました。私は信じたことをもっと知りたいという思いに駆られ、毎日福音を心に蓄えていたいと思い始めました。私にはまだ成長すべき多くの部分があります。私が信仰者として歩んだ短い期間を振り返ると、神は慈愛に満ちた、誠実なお方であることが分かります。神はとてつもない誘惑のときの中から私を引き上げてくださいました。そして神が私を贖ったゆえに何者をも私をイエス・キリストにある神の愛から引き離すことができないことを教えてくださいました。神は何と素晴らしい方でしょう。私たちがみな、すべての行いをもって神の栄光をたたえ続けることができますように。