私はクリスチャンの家庭で育ったわけではありませんが(一家は仏教徒です)、いつもキリスト教の周辺にいました。キリスト教との馴れ初めは6年生の時から高校を卒業するまで、クリスチャンの学校に通っていたことです。そういうわけで私は天国と地獄といった概念に馴染んでいました。当然のことながら、私は自分の魂はどうなっていくのだろうかという絶え間のない悩みを抱えていました。もし聖書が真実で、私は自分の罪深さが理由で救われなかったなら、地獄に落ちるであろうという厳しい現実に直面しなければなりません。
しかし私には希望がなかったわけではありませんでした。私はまた慈悲深き神が御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、救いを備えてくださったことも教えられました。もし私がキリストにある信仰を持ち、主が成し遂げてくださったことをすべて信じるならば、私の罪は赦され、私の魂はもう滅びることはありません。私は救いに値するような人間ではありませんが、主によって一方的な救いの恵みを与えていただいたのです。私はただ祈りと神の御心に対する服従によって、救いをいただいたのです。
しかしながらこの真実を受け入れることは私にとってたやすいことではありませんでした。自分の生き方が嫌いで、傲慢にも主に逆らってきました。母は 6年生の時に亡くなりました。母の死によって一家は多くの経済的な不安に直面しました。私の目には、神様が生活を保障してくださるようには見えませんでした。そして母の死によって、私はお金だけが安心の源に思えてきたのです。私にお金があれば授業料をはじめ家族の支払いをすべてまかなうことができるし、将来の不測の事態に対する備えもできると思っていました。そしてお金があれば何でも買えて私の欲望を満たすことができるし、お金こそ幸せの源泉でした。
しかし神様は辛抱強く私を見守ってくださいました。高校生の時、神様はある一人の先生と出会わせてくださいました。その女の先生は時間をかけて私と一緒に福音書を読んでくれました。けれども私はその先生とともに福音書を学ぶことを嫌がっていました。なぜかというと私は自分を変えようとは思わなかったし、それに家族にからかわれたくなかったからです。私はわざと先生の信仰を試すような質問をしました。「もし神様が私たちを愛してくださっているのなら、なぜ世界中に罪が満ち溢れていることをお許しになったのか?」とか「もし神様が私たちを愛してくださっているのなら、なぜすべての人々をお救いにならないのか?」と。 先生はいつも辛抱強く慈愛に満ちたまなざしを私に向けてくれました。それで私がどのような無理難題を投げかけても、先生の信仰は揺るぎのないものでした。先生の生き方を見ていると、私は知らないうちに先生が好きになっていました。思うに、この時からじわじわと私の心は神様に対して開かれていきました。
大学に入学すると、私はこの高校の先生からキリスト教の団体を探し出すようにと激励されました。私は先生のアドバイスを聞き入れ、それに従いました。私はすぐにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)のグレイス・オン・キャンパスに入りました。この団体はグレイス・コミュニティー教会と提携していました。私がこの団体に参加することができるように、本当に主の恵みがもたらされたのだと思います。神様は私の考えを変えるために多くの人々をお遣わしになりました。思い起こせば、お金も功績も私の魂を救うことはできなかったのです。私は天国への道を買うことも得ることもできません。そして神様の主権を否定することもできません。私は神様が私に最善を望んでおられるとは考えていなかったので、神様に逆らい続けてきました。しかしこのような考え方は御言葉に反しています。御言葉によれば、主は主を愛しする人々のために最善をなすべく働いておられます。私は主がほんとうに私を愛してくださり、善いことも悪いこともすべて私の人生の最善のために用いてくださるということを受け入れなければなりません。
そして何よりも重要なこととしてキリストが私のために死んでくださるべきであった、しかしキリストは私を愛するがゆえにそうなさったのだということをついに理解したとき、私はへりくだることが出来ました。キリストの(十字架の)死は愛と贖いを究極的にあらわしたものです。私はキリストほどに私を満たしてくれるものはこの世には何もないのだということを理解しました。このことの理解に達したとき、私はひざまずいて神が私を救ってくださるようにと主に祈ったのです。
このことは何を意味するのでしょうか。私は何も恐れる必要がありません。私の人生における多くのことはわびしく希望のないものに感じられるかも知れません。今この時も私は過去に恐れていた多くのことがらに打ち勝ってきたとは言えません。しかし私の人生において何が起ころうと、永遠のことに比べれば何事も大した問題ではありません。すなわち神様と共に永遠の時を過ごすことができるということ、このことが量り知れない希望と喜びを私に与えてくれるのです。 |