私が覚えている限り、両親はいつも私を教会に連れて行ってくれました。幼いころ、日曜学校やアワナ(クリスチャンのボーイスカウト)などたくさんの教会の行事に出席しました。私は教会で学んだ全てのことは真実ではないと思ったことはありませんでした。私はそれを決して疑問に思いませんでした。私ははじめからイエスが地上を歩かれたこと、そして十字架の上で死なれたことを事実として信じていました。しかし、これは知的な同意で、救いに至る信仰ではありませんでした。それは私にとって歴史物語以上のものではなかったのです。
私は教会に出席していたにもかかわらず、私の心は正しいところにありませんでした。私は全ての物事を自身の利益のために行っていました。私はアワナにゲームのために行っていました。そこで聖句を暗記するのが大好きでした。動機は神をことばを覚えるのでなく、暗記すると新しいバッジや賞がもらえ、みんなから褒められるからでした。私の心はプライドで満たされていました。私の行いは思慮深い悔い改めの心から出たものではありませんでした。私は単純にイエスという人が2000年前に私のために死んだことを理解しさえすれば、全てがうまくいくと思っていました。
高校時代、私は学校でよいことをしたりフットボールチームでプレイしていることで自分自身を誇っていました。私は真剣に学校では超イケてると思っていました。しかし、神は恵みによって私に罪を示され始めました。教会の若い人たちの学びに出席し始め、毎週みことのばのメッセージを聞いていました。神は私の心を柔らかくし始めました。神は私に全ての人が罪人であり、永遠の罰と死に定められていることを示されました。私は神が聖く公正で、すべての人々に完璧であることを求められていることを知りました。神の私たちに対する大きな愛のゆえに、御子であるイエス・キ リストを送って私たちの罪の罰を支払って死なせ、私たちが永遠の命を得るようにしてくださったことを分かり始めました。高校 2年のある段階で神はこの理解に私の目を開かせてくださいました。そしてそれは私の人生にとって最もすばらしい理解でした。
私は救われたにも関わらず、未熟な信者でした。高校の残りの期間は私の人生の中で最も霊的に弱った時期でした。私は高校の友人の罪の影響を喜んで受けていました。信仰者生活の日々の鍛錬からは大きく外れ、サタンのえじきとなり、この世の約束を追い求めていました。しかし、そんな私を神はほっておかれませんでした。大学進学前の夏の 1か月間、私は中国で過ごしました。そこで私は退屈でした。ある日、私はテーブルの端に聖書があるのに目をとめました。そして突然、それを読みたい衝動にかられました。私は聖書を読み、そしてそれを毎日続けました。読んで読んで読みまくりました。アメリカに帰るときまでには聖書の大部分を読み終わり、たくさんの疑問を持っていました。
UCLAに入学して、慈愛に満ちた神は私にグレース・オン・キャンパス (聖書の学び)に足を運ばせてくださり、グレースコミュニュティー教会に行かせてくださいました。ここに神が私をキリストに似た者へと、また成長した者へと変えて下さったことが分かります。そこでの人々のもっと神のことを知りたい、成長したいという願いは私の心に火をつけました。私は、みことばを読むことに時間を使い、祈り、クリスチャンの友人と交わることを始めました。私は信じたことをもっと知りたいという思いに駆られ、毎日福音を心に蓄えていたいと思い始めました。私にはまだ成長すべき多くの部分があります。私が信仰者として歩んだ短い期間を振り返ると、神は慈愛に満ちた、誠実なお方であることが分かります。神はとてつもない誘惑のときの中から私を引き上げてくださいました。そして神が私を贖ったゆえに何者をも私をイエス・キリストにある神の愛から引き離すことができないことを教えてくださいました。神は何と素晴らしい方でしょう。私たちがみな、すべての行いをもって神の栄光をたたえ続けることができますように。 |