私はクリスチャンホームで育ち、子供の頃から教会へ通っていました。覚えている限りでは私はいつも神様の存在を信じていましたが、私の理解は限られた不完全なものであったため、ただ自分が喜ぶことをし自分勝手に生きる以外知りませんでした。
正確な日時は覚えていませんが、キリストを私の救い主として公に「受け入れ」る決心をしたのは私が12歳の時だったと思います。教会の伝道集会での講壇からの招きに答えました。その時点で私は若い信仰者であったのですが、無知で影響されやすく導いてくれる人もいなかったので、キリストとの関係に何を求めたらよいのか、キリストのようになることを追求するとは、そして本当に神様を知るとはどのようなことなのか、明確な理解もなく「クリスチャン」になろうとする落とし穴に陥ってしまいました。
私は良いクリスチャンがすると思われることをしました。毎週教会へ行き、聖書を読み、食事と寝る前にはお祈りをし、教会での奉仕に熱心になりました。残念ながら神様との関係は浅いものでした。私は不十分で成長するのに必要な基礎がなかったのです。外見は健康に見えたのでしょう。しかし罪との戦いが続いていることは表に出たり、突きつけられたり、論じられることがありませんでした。変わることや成長する必要に気付かないまま信仰者としての私の生活は10年以上このように続きました。
必要や求められることを果たすための働きをしていましたが、それは教会やあるキリストへの真の愛から生まれたやる気から出たものではありませんでした。道徳的にふるまい、行動や行儀の仕方を守っていました。福音の真実を喜んで受け入れることや日々の生活におけるそれらの影響、完全に主にあって人生が支配されていることから私の心が完全に遠く離れている間でも。
けれども神様は偉大なご意思で 2005年に家を出たとき、私を力強く打ち砕き、完全に彼に信頼するように導く時を用いてくださいました。主は私の心の中の高慢と偶像を明らかにされました。神様は私の目を開いてくださり、キリストにあるとは真にどういうことなのか、罪を嘆き、悔い改めること、聖くなり成長し続けることの必要性を示してくださいました。
私が常に日々御言葉に立つようになったのは聖書研究会に参加し始めたときからで、もっと主を学び、本当に愛したいという思いは純粋に熱心なものとなりました。色々な行事や親しい友人を招く会を通して、私は2008年にグレース・コミュニティー教会を訪れました。すぐに基礎の学びに出るようになりました。そこにいる人々の御言葉に対する愛、キリストへの愛、そして隣人を愛することに何と熱心であるかを、私欲のない配慮や私に無理なく、又チャレンジとして与えられる奉仕を通して見ることができました。私は思いました。「これが御計画されたことなのだ」と。神様がなさる時は完全です。
主は私が変化を必要としていることをご存知で私の心が準備できたとき、私は牧師に呼ばれました。彼は私に良い本と信仰の友、そして私を導き成長させてくれる確かな教えを与えてくれました。私は無駄にした年月と愚かだったことを嘆きましたが、神様が目的と理由がある「より神様のご栄光が現れされる時」をお持ちだということを知っています。
私は神様が私たち個々に異なった旅を与えてくださると信じます。私にとっては調整するのに困難な年月を経験し、かつて知っていたことの核心がすべて揺さぶられる経験をしました。でもそのことを通して私は成長し、すばらしい利益を受けてきました。それは他の何にも変えられないものです。
私は神様の高い目線を持つこと、聖書の高い目線、人の低い価値観、そして自分固有目線を知っています。それは恵み、驚くばかりの恵みを経験するためだとういうことを知っています。なぜ神様が憎まれたように私も罪を憎まなければならないのか、他の人々を無理と思うときでも愛し、赦さなければならないかを知っています。主にある関係を深める価値を知っています。愛を与えることと受けることの両方、戒め、励ますこと・・・。私は教会の群れの中で自分を委ね、奉仕することを喜んでいます。キリストと彼の御命令に従うことも。なぜなら神様を愛しているからです。私は神様から私への尊い御言葉のプレゼントを大切にしています。そして御言葉を学ぶことで神様をより知り、より愛すことができることを大切としています。私は祈りと神が熱心に聞いてくださることを知るという特権を通して、力を見出しました。私はイエスを未だに知らない哀れに死んでいく女の人に福音と神と共に歩むのはどういうことかを伝えたいのです。かつて得たものを数えましたが、今ではキリスト・イエスを知るすばらしさに比べれば価値がないことを知っています。
私の人生はキリストにあり、全てをゆだねています。なぜなら彼が全ての代価を払って下さったからです。神を賛美します。なぜなら私たちは偉大で、再び戻って来られる王に仕えているのですから。
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