【証】2010年夏STMチーム1 :スティーブ・トゥー

スティーブ

私はイエス・キリストに従うことも礼拝することも知らない家庭に生まれ育ちました。むしろ物質的に豊かな生活に頼っていました。私は道徳的に生活し、人に良いことをしたり、熱心に働いたり、社会に役立つ者になるよう教えられました。

10代になった時、私がクリスチャンになりたくなかった理由は、そのような宗教は堅苦し過ぎると思ったからです。うそをついてはいけない、盗んではいけない、罪の快楽を楽しんではいけないなどというようなことです。それらの中で最大の理由は、私の知っていたクリスチャンはみな偽善的でその他一般の人と同じように私には見えたからです。中学時代の私は暗い子で自分を憐れみ、罪の楽しみを満足できないことにイライラしていました。

最初に福音を聞いたのは友人が普段の会話の中で人生、死、天国、地獄などについて話していた時のことです。彼女は私に言いました。「すべての人間は神の命令にそむいたので、地獄に行って当然である」と。「イエス・キリストは救い主であって彼を人生の主とし、救い主として信じることが唯一の天国に行く道である」と。私は聞きはしましたが、その後そのことについて深く考えることはありませんでした。

8年生(中学2年生)の終わり頃、私は近くの教会の青年会に出席し始めました。それは単に一人の女の子に興味があったからです。時がたって、のぼせ上がっていた気持ちが落ちついても、私は依然その青年会に所属していました。その理由はそこで私がそれまでに培ってきた交友関係を維持するためでした。

その後、高校1年の11月にその青年会の修養会に行き、そこで賛美をしている時に感情が高まり、キリストを告白しました。しかし修養会のときの感情的な反応によって私が救われることはありませんでした。ローマ1: 16「福音は・・・信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」にあるように信仰は単なる音楽に対する感情の応答ではありません。

神はその後何ヶ月間にもわたって、私に恵みを示して下さいました。その恵みとは「罪が神様に対するものであると知り、私がそれを憎むようになること。そして罪深さ故に私はまさに地獄に行くのにふさわしい者であると示されたこと。キリストは十字架上で私の身代わりとなって神の怒りを受けてくださったこと。イエスの人格と働きに信頼して彼に従順となり、キリストを救い主、また人生の主として従っていくことが救いの道であること」ということです。神の憐れみは受ける価値のない私のたましいにも届き、それを私に差し出してくださったということを知ったので、私は喜んで受け入れることができました。

クリスチャン生活は楽なことばかりではありませんが、キリストを知ったことの素晴らしさは世の何ものにも比べることができません。 神の約束にあっていつも信仰によって生きるのは難しいですが、神の恵みも私に十分注がれているので、私はそれをなすことができます。神のことばはいつも麗しく、いつも勇気を与えてくれます。

私の心は迷いやすい傾向にありますが、主は必ず私の心を捕らえてくださいます。テトス3:3-7は私の証そのものです。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」

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