神の主権的摂理よって、私はクリスチャンホームに育ち、小さいころから教会に行っていました。聖書の代表的な話はすべて学び、教会で尋ねられるどのような質問に対しても正しい答えを知っていました。知的には早い段階で福音を受け入れていましたが、実際のところ本当のキリスト教について知ってはいませんでした。私の信仰というものに対する理解は根本が間違っていました。神に対する信仰とはクリスチャンが知っているすべての事実に同意することであると思っていました。
ヤコブ2:19『あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。』この聖句は私には聞き慣れないことばでした。ですが、この御言葉は若い時代における私の霊的な状態を正確に描写していたのです。その霊的な状態とはゆがめられた浅い信仰であったということです。何よりも私の日常生活や他人との関係が自分に信仰がないということをはっきりと示していました。
確かに私は教会に行き、 ミッションスクールに行きましたが、私の得たすべての聖書の知識は、私の人生を少しも変えることはありませんでした。幼稚園から小学1年生の間、私は問題児の1人 でした。いつも他の生徒や先生に心配をかけ他の人の感情を無視していました。2年生から5年生までは特に問題はありませんでしたが、学問に対する誇りもあり、自分の思うようにならない時は怒りが爆発し級友を冷たく侮辱しました。それが私の真実の姿でした。私は特に他人との関係において自分の罪深さを露呈させました。自分の力では到底自分の生活を変えることはできませんでした。
6年生になる前には学校の黙想の時に神の恵みによって自分の人生を評価するチャンスが与えられ、自分がどんな者であるかを知らされました。黙想の一区切りが終わったあと、自分の信仰を問い直し、いかに自分の人生は私が信じてると言ったことと全く矛盾していたかをみることになったのを覚えています。聖書によると信じる者は新しく創られた者で、新しい考え、神を喜ばせるという新しい願望を持ち、そして習慣的に罪を犯すことはないとあります。しかし、私の人生においてはそのようなものを確認することはできませんでした。私は神に祈り、私の人生を調べた時、神の恵みの力によって次のことを知りました。
私には悔い改めと、本当に心の底からキリストが私のためにして下さったことを信じる必要があること、そしてそれが私の人生に衝撃をもたらすこと。これが私が悔い改め信じた決定的な時であったか、今でも確かではありませんが、これは確かに神による私の信仰の成長の出発点でした。振り返ったとき、神が私の間違った考えや自分はクリスチャンだと信じて自分を欺いていたことから救って下さったことを感謝します。 時が流れ、聖書を読むにつれ教会や学校での学びを通して私の人生は変えられていきました。しかし私の人生にはまだ罪がありました。神は私に罪を確信させ、私を変えようと働き続けてくださいました。
神は私の10代の時代を通じて私の人生に働きをなし続けてくださいました。そんな中で私は神の導きによってベレヤ・クリスチャン高校に行くことになりました (使徒の働き17:10-11参照)。学校ではしっかりとした聖書の教理を教えられ、私の間違った考え方を改めるように導かれました。そのころスポーツや勉強に励んでいて神との関係を優先させなかったけれども、霊的に成長し続けることができました。
高校から大学への進学では、 UCLAに行くという重要な決心をしたというのが一番大きなことでした。 そこで私は霊的に大変影響をうけました。神の恵みによりグレースコミュニティー教会に導かれ、UCLAの聖書研究会(GOC)に入りました。そこで私は霊的に成長し神や他の人への奉仕につくようになりました。それはここで働くための神の備えた準備でありました。それにUCLA卒業後もそこで聖書研究会の奉仕を続けました。
今までにしてきたいろいろな選択や成長過程にある私自身の性格の変化を振り返るとき、全き確信を持って私に言えることは、神様の主権的な恵みが私を信仰の正統的な理解に導き、霊的に成長をもたらし継続的に私を聖化させ続けてきたことです。私の証は、途方もない罪の生活スタイルの話や急激な大変化といった話ではありませんが、自分自身の力によって決して悔い改めに至ることはなかったであろう一人の罪人に対する神のあふれる恵みを示したものであることに変わりはありません。 |