神の御言葉が誠実に語られることがなかったら、私は救いの神を知ることはありませんでした。私は基礎となる福音のメッセージをいつも聞くことのできるとても祝福された環境の中にいました。祝福なことに私はクリスチャンの両親と共に教会で育ちました。救われた正確な日時ははっきり言えませんが、自分は神のものであると知っていました。神の恵みが必要な罪人であることに気付くまでにかなりの時間がかかりました。
4歳のとき、ローマ書3章23節「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・」を学びました。罪の重大さを明確に理解するのにそんなに時間はかかりませんでした。罪とは故意に神の道徳的律法を破り、御心を冒涜することです。嘘をついたり、憎しみの心を持つこと、神以外の物や人を礼拝することは罪です。これらは決して小さな罪ではありません。
ローマ書6章23節に「罪の報酬は死です。」とありますが、これは神から完全に分離されること、あるいは地獄です。神の律法を破ったので私は地獄へ行くのにふさわしい人間です。地獄から私を救い出す方法は何一つありません。
幼い頃から福音を知っていましたが、パリサイ人のように間違った考えを持っていました。私は自分の価値に基づいて神の愛や恵みを受けられるのだと思っていました。私自身に何の価値もないのですから愚かな考えでした。私はかつて霊的に死んでいて、神が私を生かしてくださるまで神の恵みに完全に応答することができませんでした。罪の中にいては神の敵です。しかし憐れみ深い神が私を生かし、ご自分を明らかにされることを選ばれました。神が私を救うために選んでくださったことをとても感謝しています。 なぜなら私自身が神を選ぶことは出来ないからです。ただ恵みのゆえに、信仰による、ただイエス・キリストにあっての無償の賜物なのです。
ローマ書 5章6節、8節~11節でそのことを完全に教えています。 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に不敬虔な者のために死んでくださいました。」「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」かつては神の敵であった私たちが神によってその御怒りから救われたのです。イザヤ書53章にキリストは喜んで死んで下さり、しかも神は私たちのために彼を砕かれることを喜びとされたのです。イエスの完全なるいのち、死、葬り、3日目の復活によって私たちは救われるのです。このことを通して私たちは大きな喜びをもって神を礼拝できるのです。私自身が罪の贖いを十字架にかかってすることは全く不可能なので、イエスが十字架にかかり、私のすべての罪の代価を完全に支払われました。だから私自身が十字架にかかる必要はないのです。すべては信仰による神の賜物です。それは悔い改めによるのです。自分の罪を認め、その罪からキリストと共に離れて、私たちが恵みと憐れみによって受けるキリストの聖さにたちかえることです。神に対して自分自身を証明することはできないし、またその必要もありません。キリストが全てを支払ってくださいました。神は何と偉大なお方でしょう。
以上のことを知り、罪を悔い改め、恵みゆえの信仰によってイエス・キリストの救いの御わざを心から信じ、私は13歳のときにキリストに従い、バプテスマを受けました。驚くべきことは今もまだ日々罪を犯してしまいますが、私は赦されています。神は私が主にあって成長し続けられるように豊かに祝福してくださっています。みことば、教会、また神について私が読んだ書籍を通して、より神について学ぶことは大きな祝福です。私の理解をはるかに越える恵みや憐れみを溢れんばかりに与えられていることに驚いています。生きることは簡単ではありませんが、私は豊かに祝福されています。
ローマ書6章18節にあるように私はもはや罪の奴隷ではなく、義の奴隷となったのです。聖書の偉大な真理を単に聞くだけでなく、ヤコブ書1章22節で教えられている通り、私の生涯に適用していきたいと祈っています。 |