私の両親が結婚したとき、父の学校の卒業を機に二人は台湾からアメリカに移住しました。彼らはとてもつつましい生活をし、アメリカでの生活を何とかやっていきました。その頃、彼らは教会に行き、共にバプテスマを受けました。父は博士課程を終え、とても良い仕事に就き、南カリフォルニアに移住しました。私の両親が移住したとき、彼らはもう教会へは行っていませんでした。兄と私は南カリフォルニアで生まれ、私たちのどちらも子供のときは教会に出席していませんでした。
私は普通の、守られたアメリカの生活をしてきました。良い友人に恵まれ、学校での良い成績を取り、この生活が好きでした。しかしながら中学生のときに私は両親に反抗しました。私は、非常に世的な娯楽を追い求めるようになったのです。例えば流行、買い物とか男子の注意をひく事!などを愛するようになりました。両親に従わず、尊敬すらも示しませんでした。人はティーンエージャにはよくあることだと言うかもしれませんが、このような世的な事柄の娯楽は高ぶった心と神様に対する憎しみの結果なのです。私は自分自身を神とし自分の欲望を満たしていました。私はそのことを分かっていませんでしたが、神の基準に対して不従順であったために滅びの道を歩んでいました。
聖書は箴言 17:5で、「主はすべての心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。」と言います。
罪人であった私に、神様が憐れみを示してくださいました。私が自分を救うことができないとご存知であるがゆえに、神様は十字架で私の罪の罰を受けるために御子を送ってくださいました。高校に入る前の夏、私のクリスチャンのいとこが私を教会の修養会に誘ってくれました。この修養会で私ははじめてクリスチャンというものを体験しました。私には解りませんでした、なぜみんな歌っているのか、なぜみんな説教を聴こうとするのか、なぜみんなこんなに素敵なのか!私はその会で何人かの友達を作りました。その友達に会うために、日曜日にときどき教会に行き始めました。一年ほど教会に行き、そして聖書を読んでみると、私にも解りはじめました。彼らは善い人たちだから教会に行くのではない、むしろ皆罪人で、神様のあわれみを必要としていることを知っているから行くのだという事を。
高校生のとき、私は自分も罪人であることを悟りました。私の世的な娯楽のすべては価値のないもので、それは私が創造主を知らなかったからでした。ついに私は、自分が地獄の罰がふさわしい者で、信仰により神様の前に義とされることを悟りました。第2コリント5章 21節に、イエス様の事に言及して神様は、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と言われます。私は罪を悔い改め、16歳のときに人生を捧げました。御言葉に従って、17歳のときにバプテスマを受け、それ以来教会で活発に活動しています。大学に入ってから、母がもう一度教会に行くようになりました。母は信仰に立ち返り、私たちは父と兄の救いのために祈っています。 |